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和歌山地方裁判所 昭和57年(行ウ)1号 判決

原告 神谷榮 外六名

被告 和歌山労働基準監督署長

訴訟代理人 森本翅充 川野善朗 八木源二 山本栄一 木村和夫 外四名

主文

一  被告が、昭和五一年八月一九日付で別表(一)記載の各請求者らに対してなした各不支給処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  亡神谷博、亡前村孝則、亡寺中一夫、亡小倉重太郎、亡谷口房之助、亡田崎正一、原告田和徳次郎(以下において、右七名を総称する場合は、本件被災者らという。)は、いずれも別表(一)記載の就労期間、同表記載のベンジジン製造業務就労事業場において、発ガン作用を有する化学物質であるベンジジンの製造業務に従事した。

2(一)  亡神谷博、及び原告神谷榮を除くその余の原告ら六名(以下において、右七名を総称する場合は、本件請求者らという。)は、本人、夫、又は父である本件被災者らが、右ベンジジンの製造業務に従事したことを原因として、別表(一)の各発病日欄記載の日に膀胱ガン等に罹患したとして、被告に対し、労働者災害補償保険法(以下、労災保険法という。)に基づき別表(一)の請求年月日欄記載の日に同表の請求した給付の種類欄記載の各給付の請求(以下、本件請求という。)をした。

(二)  なお、亡神谷博については、同人が昭和五九年一月八日死亡し、同人が和歌山労働基準監督署長に対し請求していた労災保険法による療養、休業及び障害補償給付の未支給の保険金につき、遺族間で協議の結果、妻である原告神谷榮がこれを相続し本訴における原告たる地位を承継した。

3(一)  被告は、本件請求者らの請求に対し、労災保険法による保険給付の対象となるのは、同法が施行された昭和二二年九月一日以降に業務に従事し、これに起因して発生した死傷病に限られるのであり、本件被災者らがベンジジン製造業務に従事した期間はいずれも右施行日前なのであるから、同法にいう「業務」上の疾病とは認められないとして、別表(一)記載のとおり昭和五一年八月一九日各不支給処分(以下、本件不支給処分という。)をした。

(二)  本件請求者らは、本件不支給処分を不服として、それぞれ再審査の請求をしたが、労働保険審査会は、昭和五七年一月一八日、これをいずれも棄却する旨の裁決をした。

4  しかしながら、本件不支給処分は、以下に述べる理由により労災保険法の解釈、適用を誤つてなされたものであるから取り消しを免れない。

(一) 労災保険法上、本件不支給処分を根拠づける明文の規定は存しない。

すなわち、労災保険法は、経過規定として第五七条を設け、同条第二項において「この法律施行前に発生した事故に対する保険給付及びこの法律施行前の期間に属する保険料に関しては、なお旧法による。」と定めている(なお同法の施行日は、昭和二二年政令第一七一号により昭和二二年九月一日である。)。ところで、右条項にいう「事故」とは、その文理解釈からして、労働者が負つた「負傷」あるいは罹患した「疾病」を意味すると解すべきであり、右条項に関する解釈例規及び労災保険法と共に労働災害についての基本法たる地位にある労働基準法(以下、労基法という。)の経過規定(同法第一二九条)の文言(同条は「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による。」と定めている。)も右解釈を裏づけるものである。

本件請求者らは、前記のとおり、本件被災者らがいずれも労災保険法の施行日後に発病したとして本件請求をなしたのであるから、右労災保険法第五七条第二項の解釈からして、本件被災者らに同項にいう旧法が適用されないことはいうまでもなく、少なくとも同法第五七条第二項が本件被災者らに対し労災保険法の適用がないとする本件不支給処分の根拠となし得るものではない。

むしろ同法第五七条第二項の反対解釈からすれば、労災保険法は、本件被災者らのごとく同法施行前に業務に従事し、同法施行後に発病した労働者についてもその適用を予定している趣旨と解せられる。

(二) 本件被災者らには、労災保険法上の給付を受けるべき実質的な理由が存する。

すなわち、第二次世界大戦後、日本国憲法の理念に基づいて、従来の工場法、労働者災害扶助法などが労基法に面目を一新して統合され、かつ労基法上の災害補償責任を担保するものとして労災保険法が制定された。その趣旨が明治憲法下の旧法による災害補償制度がきわめて不完全、不充分であつた点を改善し、労働者が人間らしく生活を営めるように給付水準を引上げ、給付対象を広げることにあつたことは何人も否定できない。

右労災保険法の立法趣旨及びその経過からして、本件被災者らのごとく、旧法(工場法、労働者災害扶助法)下において業務に従事し、きわめて重篤な疾病の原因物質に曝露され、いまだ発病に至らない間に旧法が廃止されて新法たる労災保険法が施行され、しかも前記経過規定によつて旧法の適用を受けられない労働者は、彼らを「法の谷間」に置き去りにしない意味からも、当然に新法の適用を受けると解すべきである。

(三) 本件不支給処分の違憲性

本件不支給処分は、結局本件被災者らが業務に従事した時期が、労災保険法施行前であることの一時をもつて同人らに対する保険給付を拒否することに帰し、右結果を是認することは同法施行後に業務に従事した労働者が同法による保護を受けられることに対比して、明らかに社会的身分による差別的取扱いであり、かつその取扱いには合理的な根拠を欠き被差別者たる本件被災者らにとつて著しく苛酷な結果をもたらすことになる。

したがつて本件不支給処分は憲法一四条二項に違反する違憲の行政処分である。

5  よつて原告らは、被告に対し、被告が、昭和五一年八月一九日付で別表(一)記載の各請求者らに対してなした各不支給処分の取り消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)の事実は認める。

3  同3(一)、(二)の事実は認める。

4  同4(一)ないし(三)の主張は争う。

なお、労災保険法第五七条第二項にいう「事故」の意味を原告らが主張するごとくに解釈する根拠は全く存せず、むしろ同法の他の条文で使用されている「事故」の語との対比及び解釈例規の趣旨からして、右「事故」は負傷、疾病の原因となつた業務上の事由である、或る事実を意味すると解すべきであり、したがつて同法第五七条第二項は、同法施行後に保険給付をなすべき状態が生じた労働者については同法の適用はなく、旧法によることを明確にした趣旨と解すべきである。

三  被告の主張

原告らは、本件被災者らが、労災保険法の施行前にそれぞれ従事していたベンジジン製造業務のために、同法施行後である昭和二四年一月以後にそれぞれ膀胱癌等(以下、本件疾病等という。)に罹患したとして、右疾病等又はこれによる死亡につきいずれも労災保険法が適用されるべきであると主張している。

しかしながら、原告らの右主張は、労災保険法の解釈を誤まつたものであり、本件被災者らの本件疾病等につき同法を適用する余地はない。

1  労災保険法に基づく労災保険制度は、労基法で法定された使用者の災害補償義務を、政府が保険給付の形式で肩代りすることにより、被災労働者の迅速かつ確実な保護を図ることを主たる目的とするものであり、右労災保険制度の基本的性格は、労災保険法の多数回にわたる改正によつてもいささかも変更していないのであり、労働者の業務災害について同法の適用があるか否かは、ひとえに当該労働者の業務災害につき使用者が補償義務を負つていたか否かにかかるものである。

ところで、本件被災者らは、いずれも労基法施行前に業務に従事していたものであるから、本件被災者らの本件疾病等について、本件被災者らが就業していた会社の事業主(使用者)に労基法上の災害補償義務を負わせることができないことは、以下に述べる理由により明らかである。

(一) 労基法は、同法施行日以後において、同法八条に規定する適用事業に従事する労働者に対して適用されるのであり、施行日当時雇用関係になかつた原告らに対しては労基法の適用はない。

(二) 使用者に対し、刑罰法規(労基法第一一九条第一号)をもうけてまでして強制している災害補償義務が発生するためには、当該業務災害は、労基法施行後において、使用者が支配・管理している領域内で発生した業務上の事由である、或る事実に起因するものに限らなければ不合理である。

(三) 労基法は、工場法や労働者災害扶助法に比し、その適用事業を大幅に拡大しているが、仮に労基法が施行される前に右適用業務に従事していたにすぎない者に対してまで適用があり、かつ、施行日前の業務上の事由である、或る事実により、施行日後に発病した疾病等についてまで使用者の災害補償責任が発生するとすれば、労基法によつて初めて適用事業とされた事業の使用者は、労基法施行前は災害扶助義務が法定されていなかつたにもかかわらず、同法施行後に施行前の業務上の事由に関することにつき責任を負わされることになり、不合理な結果を招くことになり、そのことを肯認するためには、当然、特別な規定が必要であるが、そのような規定は労基法にはない。

(四) 労基法第一二九条は「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による」と規定しているが、これは、労基法施行前の業務上の事由である、或る事実に関する災害補償について、同法を遡及適用しないという当然のことを、社会立法には遡及を認めても良いとする意見があることに鑑み、注意的、確認的に規定したにすぎないものであつて、同条文に関する昭和二二年一二月二〇日付通達(災補第一九号)も右解釈を確認している。

2  労災保険制度は、使用者の災害補償責任に基礎を置くことから、使用者が全額を負担する保険料によつてまかなわれるものであり、政府が保険者となり、使用者がこれに加入して保険料を納付していれば、業務災害が発生しても、被災労働者に対して政府が保険給付を行う仕組みになつているのであり、使用者に労災保険法上の保険料納付義務すら発生していない場合についてまで保険給付がなされることは想定していないのである。

そして、本件被災者らをベンジジン製造業務に従事させていた使用者らは、保険料を納付したことがなく、その納付義務すらなかつたのであるから、原告らに対し、労災保険給付をすることができないことは明らかである。

3  労災特別援護措置による救済について

(一) 昭和四六年ころから、労災保険法施行前に鉱山で就業していた労働者が、その業務のために慢性砒素中毒あるいはじん肺に罹患したことが明らかになつたが、労災保険法施行前の就業者については同法を適用できないことから、国会の社会労働委員会をはじめ各委員会で何らかの援護措置を求める意見が相次いで出された。

このことは、立法府である国会においても、労災保険法施行前の就業者には同法の適用ができないことを当然の前提としていたことを示している。

(二) ここにおいて、国は、労災保険法上の保険給付を行うことはできないが、行政措置として、被災者に対する援護措置を行うこととし、労災保険法第二三条に基づく保険施設(現在は労働福祉事業)の一つとして「労災特別援護措置」を昭和四八年八月一五日から実施しているのである(昭和四八年八月九日基発第四六七号)。

右通達は、その制度の趣旨として「労災保険法の施行前に鉱山等において有害業務に従事したことに起因して同法施行後にじん肺等長期間の経過後に発病する遅発性疾病にかかり、療養の必要があると認められる者に対し、援護の措置を行う必要があるのでこれらの者に対し援護を行い、もつて福祉の増進を図るため新たに設けたものである。」と述べ、実定法規上、労災保険給付を行うことはできないが、福祉行政の一環として援護措置を設けることを明らかにしているところである。

(三) そして、本件のベンジジンによる疾病が発生した事態に対処して、被告は、法施行前にベンジジン製造業務に従事し、施行後に発病した被災者について、右特別援護措置の対象とし、該当者(本件では亡神谷博)には療養費用の一切及び療養に伴う必要な雑費の支給を行つた。

四  被告の主張に対する認否及び原告の反論

1  被告の主張1は争う。

確かに労災保険法は労基法と同時に制定され、給付内容が労基法上の補償と同一とされるなど当初は労基法の使用者の災害補償責任の内容を肩代りするものとして出発した。

しかしながら、昭和三五年以降の法改正によつて雇用関係にない者をも給付対象とする等の被適用者の拡大、年金制度の導入やリハビリテーシヨン制度の創設にみられる給付内容の拡大、保険財源への国庫負担制度の導入による費用負担の変化等がもたらされた結果、現在では労災保険制度は必ずしも労基法上の使用者の災害補償義務を前提とするものではなくなつており、社会的災厄に対する生存権保障の観点からする社会保険の原理に基づいて決定されるものである。したがつて被告がその主張1でいうところは誤つている。

2  被告の主張2は争う。

国のなすべき労災保険給付の範囲は法律により定まるものであり、法律により定められた給付要件に合致している限り保険給付をなすべきは当然であつて、保険料の納付義務と労働者の補償受給権とは法的に別個である。現行労災保険法は、適用事業について保険料の納付と関係なく、保険給付を行なうこととしているものである。

なお仮に、保険料の拠出が支給の前提になつているとしても、本件被災者らが就労していた山東化学株式会社及び由良精工合資会社はいずれも労災保険法施行後も存続し、同法の適用を受け、保険料の支払いを続けていたのであるから、本件では右支給要件を充足しているということができる。

3  被告の主張3のうち、労働省が労災特別援護措置を実施していること、亡神谷博が右援護措置による給付を受けていることは認め、その余の主張は争う。

労働省が特別援護措置を設けていること自体、労災保険法施行前の就業による膀胱ガン等の業務上疾病に対し、労災保険法はじめ、何らかの公的給付を拒否することが余りにも不合理かつ社会常識に反することであり、このような援護制度を設けてでも、被災者の救済を図らねばならない緊急の必要性が何人にも明らかであることを実証している。

第三証拠〈省略〉

理由

一  本件被災者らのベンジジン製造業務への従事とベンジジンの発ガン性について

1  本件被災者らがいずれも別表(一)記載の就労期間、同表記載の就労事業場において、ベンジジンの製造業務に従事した事実は当事者間に争いがない。

2  成立に争いのない甲第一号証、第一二号証、第四一号証、第四三ないし第四九号証、乙第六号証の一、二、証人藤原慎一郎、同原一郎の各証言によれば、ベンジジンの化学的性質、使用用途及び発ガン性について、以下の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(一)  ベンジジンとは、〈化学式省略〉の化学構造式を有する白色ないし黄味又は赤味を帯びた灰色の結晶性粉末の物質であり、染料の中間物質として、一八七九年ドイツでその製造が開始され、わが国においても、大正年間からすでにその製造が始まつたが、第二次世界大戦後、ことに昭和二八年に開始された中国向輸出の影響でその大増産が行なわれ、最盛期の同三〇年には一三〇〇トンにもおよぶベンジジンが製造されるほどになつた。

(二)  ところでベンジジンについては、すでに今世紀初頭から、当時化学工業が隆盛をきわめたドイツにおいて、その発ガン性が指摘され、第一次世界大戦後の化学工業(特に染料工業)の分散化にともない、ヨーロツパ各国でもベンジジン、2―ナフチルアミン等の化学物質の発ガン性についての症例報告がなされ、第二次世界大戦後は、まずイギリスにおいて職業性膀胱腫瘍についての各分野の専門家による組織的な調査研究活動が開始され、右調査の結果高度に発ガン性を有するとされたベンジジン、1―ナフチルアミン、2―ナフチルアミンについては、その製造中止をも含めて全面的な職業性膀胱腫瘍管理が実施され、これに触発されて各国でも同様の対策が施された結果、右化学物質の発ガン性についての認識が高まり、ベンジジンについては、昭和四二年にイギリスで、続いて同四六年にはドイツでその製造、使用が禁止された。

(三)  わが国における職業性膀胱腫瘍については、第二次世界大戦前には、ごく少数の報告例が存在するのみでその実体は不明であつたが、同大戦後、諸外国の右腫瘍に対する情報が入手されるにつれ、徐々にこれについての対策の必要性が認識され、ことに前記昭和三〇年ころの中国向輸出のためにベンジジンの増産を機に被害が拡大したことから、同三一年、三三年には労働省はベンジジン中毒に関する特殊健康診断の実施及びベンジジン製造を行う事業所の衛生管理を強化促進するための通達を出し、行政指導に当つた。

事業所において右健康診断の実施が定着化するにつれ、わが国でもベンジジン等の化学物質への曝露による膀胱腫瘍の症例が多数報告され、前記諸外国の動向も相まつて、ついに昭和四七年労働安全衛生法の施行にともない、ベンジジンの製造及び使用が禁止され、続いて労働省は、同五一年八月四日付け基発第五六五号により、同三四年八月二〇日付け基発第五七六号を廃止し、ベンジジンについては、これに曝露する業務への従事歴が三か月以上の者で、その疾病が尿路(腎臓、腎盂、尿管、膀胱及び尿道をいう。)に原発した腫瘍である場合には、右通達当時の労基法施行規則第三五条第二七号又は同二九号に掲げる疾病に該当するものとして取り扱う旨の通達を出した。

(四)  次にわが国での報告例に基づきベンジジンに曝露したことによる尿路系腫瘍の特徴を挙げると、まず発病までの潜伏期間が、最短で一年、最長は四五年、平均で一八年と長期間であること、統計上ベンジジンへの曝露期間と発病率の間に相関関係が認められないことからして、短期間でも曝露されたものは発病の可能性をもつことになること、再発率がほぼ五〇パーセント近くにものぼり、発病が九回、一〇回という例も報告されていることからして、一旦発病した者は治癒後も再発の危険にさらされることになること等が指摘されている。

二  本件請求者らの労災保険給付の請求と被告の不支給処分について

1  本件請求者らが、本件被災者らがベンジジン製造業務に従事したことを原因として、別表(一)の各発病日欄記載の日に膀胱ガン等に罹患したとして、被告に対し、労災保険法に基づき別表(一)の請求年月日欄記載の日に同表の請求した給付の種類欄記載の各給付の請求をした事実は当事者間に争いがない。

2  右本件請求者らのうち、亡神谷博については、同人が昭和五九年一月八日死亡し、同人が和歌山労働基準監督署長に対し請求していた労災保険法による療養・休業及び障害補償給付の未支給の保険金につき、遺族間で協議の結果、妻である原告神谷榮がこれを相続した事実は被告において明らかに争わないから、これを自白したものとみなし、右事実によれば原告神谷榮が、亡神谷博についての本訴における原告たる地位を承継したと認めるのが相当である。

3  右本件請求者らの請求に対し、被告が、労災保険法による保険給付の対象となるのは、同法が施行された昭和二二年九月一日以降に業務に従事し、これに起因して発生した死傷病に限られるのであり、本件被災者らがベンジジン製造業務に従事した期間はいずれも右施行日前なのであるから、同法にいう「業務」上の疾病とは認められないことを理由として、別表(一)記載の各不支給処分をした事実及びこれを不服とする再審査請求についても労働保険審査会がこれを棄却した事実はいずれも当事者間に争いがない。

三  ところで労災保険法は昭和二二年四月七日公布され、同年九月一日施行されたが、同法は、経過規定として第五七条を設け、同条第二項において「この法律施行前に発生した事故に対する保険給付及びこの法律施行前の期間に属する保険料に関しては、なお旧法による。」と定めている。

被告は、右規定にいう「事故」とは、労働者に発生した負傷、疾病等の原因となつた業務上の理由である、或る事実を意味すると解すべきであるとし、右規定が存在する以上、本件被災者らのごとく疾病の原因となつたベンジジンへの曝露が法施行前に生じた労働者には旧法による保険給付がなされ、したがつて労災保険法による給付はなし得ない旨主張する。

しかしながら、以下にのべるとおり、右規定にいう「事故」とは、被災労働者に発生した負傷、疾病等の結果を意味すると解すべきである。

1  労災保険法第一条が「労働者災害補償保険は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、…………もつて労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする。」旨定めていることからして、同法による保険給付がなされる対象が労働者の負傷、疾病、障害又は死亡であることは明らかであり、第五七条第二項が「事故に対する保険給付」と規定し、「事故」が保険給付の対象を意味する文言として使用されていることからすれば、右規定の文理解釈上、右「事故」は労働者に発生した疾病等の結果を意味すると解するのが相当であり、これを被告が主張するごとく業務上の事由である、或る事実と解すると、保険給付が、原因となつた「或る事実」に対して適用される結果となり、労災保険法の基本原理に反するのみならず、給付の内容を決定することすらできない事態を招来することとなる。

2  次に、労災保険法とともに労働災害に対する基本法である労基法の経過規定についてみるに、同法第一二九条は、「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による。」と定めており、右条文はその規定の仕方からして、旧法の扶助に関する規定が適用されるのは、労基法施行前にすでに災害補償の対象たる疾病等が発生していた場合であると解するのが自然であり、右規定も前記労災保険法の右説示の解釈を裏づけるものとなつている。

3  また通常の用語例によれば、「事故」とは結果の発生を意味するものとして使用されることからすると、労災保険法、労基法の各経過規定は立法当時原因行為によつて短期間で結果の発生するいわゆる災害性疾病を予定しており、発病と原因行為との間に長時間の隔たりのあるいわゆる職業性疾病は予想していなかつたと考えられる。

4  因みに、被告は、自らの解釈を正当とする根拠として解釈例規及び労災保険法の他の条文に使用されている「事故」の語の意味との対比を挙げるのでこれにつき考える。

(一)  まず解釈例規についていえば、確かに成立に争いのない乙第四号証、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第五号証によれば、労働省労働基準局は、昭和二五年七月二八日付基収第二〇八九号及び同五一年一一月一二日付基発第八二六号の二つの行政通達において各地方労働基準局に対し、被告が主張する解釈に沿つた指導をなしていることが認められるが、そもそも解釈例規とは、行政の統一的運用を図る目的で、行政庁が具体的に成起した問題について自らの判断を明らかにしたものにすぎず、本件のごとく被告の法解釈自体が争点になつている訴訟においては、行政庁の法解釈を明確にする以上の意味を有するものとはいえないうえ、成立に争いのない甲第二四号証、第二五号証によれば、昭和二三年一月一三日付基災発第五号、同年六月二四日付基収第二〇〇六号等の通達において、労働基準局自らが、労災保険法施行直後においては、旧法の適用の有無を疾病等の結果の発生により区別していたことが認められることからすれば、右行政庁の解釈自体確固として定着してきたものではないことが窺われ、前記解釈例規が存在することをもつて被告が主張する解釈の根拠とはなり得ないというべきである。

(二)  次に、労災保険法上、他の条文に使用されている「事故」の意味についてみるに、確かに同法第一二条の二の二第一項及び第二項、第二五条第一項第二号に使用されている「事故」については、右条文が、「……の原因となつた事故」あるいは「……の原因である事故」と規定していることからして、被告が主張するごとく「業務上の事由である、或る事実」と解する余地があることは否定できない。

しかしながら、ある法令中に同一の文言が用いられている場合であつても、当該文言の使われ方によつて、条文ごとに別異に解釈することが許されないいわれはなく、前記1で述べたように、第五七条第二項においては、「事故」は保険給付の対象を意味する語として使用されていることからすれば、これと異なる使われ方をしている前記第一二条の二の二第一項等における「事故」の意味をいかに解するにせよ、これをもつて第五七条第二項の「事故」を被告が主張するがごとくに解釈する根拠とはなし得ない。

以上述べたところからすると、前記経過規定の「事故」とは被災労働者に発生した負傷、疾病等の結果を意味するから、本件被災者らには旧法の適用がなく、したがつて旧法が適用され労災保険法の適用はない旨の被告の主張は失当である。

四  そこで右経過規定の反対解釈から直ちに本件被災者に対し労災保険法が適用されるか否かにつき検討を加える。

1  被告は、労災保険法上、保険給付の対象たる疾病等の原因となる「業務」を同法施行後の「業務」に限る旨主張し、労災保険制度が、労基法で法定された使用者の災害補償義務を政府が保険形式で肩代りすることにより、被災労働者の保護を図ることを主たる目的として制定されたものであることからして、使用者が労基法上の補償義務を負わず、労災保険法上の保険料納付義務すら発生していない場合において、労災保険を支給できないことは明らかであるとし、本件被災者らが就業していた会社の事業主に労基法上の補償義務を負わせることができない根拠を縷々主張する。

確かに、労災保険制度の制定過程からみて、右制度が労基法上の使用者の災害補償義務を肩代りするものとして出発したことは明らかであり(この点については原告も明らかに争わない。)、その後の幾多の法改正を経て、適用範囲の拡大、年金制度の導入、費用の一部国庫負担等が図られた結果、現行制度が、労基法で定める個別使用者の災害補償義務のみからは説明できない面を持つに至つていることは原告が主張するとおりであるにせよ、労災保険法第一二条の八第二項により保険給付の支給事由が労基法のそれと同一とされていること、労基法第八四条第一項で、保険の機能として、使用者の災害補償責任を免責させる効果が法定されていること、労災保険事業に要する費用の一部について国庫補助が行なわれているものの、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第一号証によれば、国庫補助が費用全体に占める割合は昭和五〇年度から同五七年度にかけて〇・一五パーセントないし〇・二六パーセントにすぎないことが認められることからすれば、現在においても労災保険事業に要する費用はほとんどすべて使用者が負担する保険料によつて賄われているというべきであること等に照らすと、なお労災保険制度は個別使用者の災害補償責任を担保する趣旨のものであり、制度の本質に変化はないものといわざるを得ず、又労基法施行前に使用者であつたものに対し、何らの限定をつけることなく同法で定める使用者の災害補償義務を負わせることができないことは、同法に右義務を遡及させる規定が存しないことからみて明らかである。

2  しかしながら、右の事から、直ちに労災保険法上の「業務」を同法施行後の業務に限定して解釈すべきいわれはなく、むしろ以下に述べるところからすれば、本件被災者らには労災保険法を適用できると解すべきであり、そう解しても労災保険制度の趣旨には反しないというべきである。

(一)  労災保険法施行前後の災害補償のしくみは、別表(二)に記載したとおりであり、労基法が施行されたことにより新たに災害補償義務を負うことになつた使用者及び同法施行前に事業を廃止した結果、同法上の義務を負うことのなかつた使用者は別として、工場法等旧法下においてもすでに補償義務を負い、労基法施行後も事業を継続させた使用者にとつては、同法の制定は、補償義務の内容を強化する結果をもたらしたにすぎず、右義務の本質に変化が加えられたわけではない。このことは、ともに使用者の災害補償義務を定めた規定である、工場法第一五条と、労基法第七五条ないし第七七条、第七九条、第八〇条との文言の対比上からも明らかである。

そうだとすれば、旧法下において事業を営み、労基法施行後においても右事業を継続させた結果、同法で定める補償義務を負うに至つた使用者については、旧法の廃止は補償義務の消滅をもたらすものではなく、右義務は労基法上の義務に包含されて存続しているというべきであり、右使用者にとつては、たとえ法形式上旧法の廃止と労基法の制定という形がとられたにせよ、その実質は旧法下の補償義務がその改正によつて強化されたものにすぎないと解するのが相当である。

さもなければ、日本国憲法下の労働立法にふさわしい内容を有するものとして、労働者の権利を充実させるべく立法された労基法の制定により、かえつて使用者の災害補償義務を免責する結果をもたらすことになり、これが労基法制定の趣旨に反することはいうまでもない(なお、右補償義務についての解釈が、右義務に違反した場合の罰則の適用とは無関係であることは、労基法第一三〇条の規定からも明らかである。)。

(二)  次に保険料の納付義務についてみるに、この点においても、労災保険法の施行前後を通じて事業を継続させ、旧法下においても保険料の納付義務を負つていた使用者については、(一)で災害補償義務について述べたと同一の理由により、労災保険法の制定はいわば使用者の負担すべき保険料の額を増額させたにすぎず、同法施行前後を通じて保険料の納付義務に変化はないというべきであり、このことは労働者災害扶助責任保険について、労災保険法第五七条第四項が、労働者災害扶助責任保険を締結している者が、労災法施行後の期間に属する保険料を既に払込んでいる場合は、右保険料は、労災保険の保険料に充当することができる旨規定していることからも裏付けられる。

してみると、使用者が労災保険法上の保険料納付義務を負つていない時期に業務に従事したことの一事をもつて、被災労働者に保険給付を支給しない根拠とはなし得ないというべきである。

五  以上述べたことから明らかな如く、当該被災労働者の使用者が、工場法等旧法下においても災害補償義務を負い、労基法施行後も事業を継続している場合において、労災保険法施行前の業務によつて同法施行後に疾病の発生した労働者に対しては労災保険法の適用があると解すべきところ、本件についてこれをみるに、本件被災者らが、別表(一)記載の就労事業所において業務に従事した事実は当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一号証、証人藤原慎一郎の証言及び弁論の全趣旨によれば、右各就労事業所が工場法の適用要件を満たす事業所であつたこと、右事業の使用者が労基法、労災保険法施行後においても右事業を継続したことが認められるから、本件被災者の疾病が業務に起因したと認められる限り(本件では疾病と業務との因果関係の有無が処分事由となつていないので、これにつき検討を加えない。)、本件被災者に労災保険法の適用があるというべきである。

六  のみならず本件被災者らに旧法が適用できないことは三で述べたとおりであり(なお、被告が主張するごとき解釈を前提として、旧法の適用を受けると解したとしても、昭和二二年四月一日法律第四五号によつて改正される前の健康保険法の支給要件に鑑みて、結果的に本件被災者らは旧法の保険給付は受けられないこととなる。)、そうだとすれば、本件被災者らは、一の2で述べたごとく救済の必要が明らかであるにもかかわらず、その業務に従事した期間が労災保険法施行前の一事であることをもつて「法の谷間」に置き去りにされることとなり、この結果を是認することが日本国憲法の理念に基づき制定された労災保険法の趣旨に反することは原告らの指摘を待つまでもなく明らかである。

七  更に、被告は、本件不支給処分を裏付けるものとして「労災特別援護措置」の存在を云々するので、これにつき考えるに、成立に争いのない乙第一七号証、第一八号証の一ないし四によれば、右措置が実施された経過及びその目的については被告の主張に沿つた事実が認められる。

しかしながら、右措置が実施されたのは、被告が労災保険法について本件で主張しているような行政解釈をとり続けた結果であり、これをもつて行政解釈の根拠とすることはいわば本末転倒であるのみならず、右措置の根拠となつた通達(乙第一七号証)を具に検討すると、右措置の対象を定めた2(2)項中には、「労基法若しくは労災保険法の規定による災害補償若しくは保険給付を受けることができる場合には、本制度による援護の対象とならない。」としており、労働基準局自らが、本件被災者らと同様な被災労働者に対しても労災保険法を適用することが不可能ではないことを認めているふしも窺えること、更にいえば右措置を導入したこと自体、本件被災者らのごとき労働者を救済する必要性が何人にも明らかであることを示しているともいいえること等からして、右措置が実施されていることをもつて本件不支給処分を理由あらしめる根拠とは到底なし得ない。

八  以上説示のとおり、本件請求者らに労災保険法の適用がないことを理由になされた本件不支給処分は同法の解釈・適用を誤まつた違法な行政処分であるというべきであり、本件不支給処分の取消を求める原告らの本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 亀岡幹雄 將積良子 野々上友之)

別表(一)〈省略〉

別表(二)〈省略〉

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